月別アーカイブ: 2015年9月

再出発、です

「我が人生」削除しました

これからって 楽しみ?にしてくださっていたごいさん、ごめんです!

 

これから ますます私的なこと故 やはりここでは無理のような…

母への想いを 思いきって書けたことが

自分としては してやったという感じです

 

思えば あの時やめておけば 良かったな

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昨夕 一駅向こう

次女の子どもたちの保育園のお迎えの お役目を果たしに行く

 

遅出が終わって 帰ってきた娘の 悩まし気な表情

年長児のおしゃまな娘の言葉が ママさん仲間に波紋を広げたらしい

『子どもの前での言動、気をつけてって、

お母さんに 言われていたのにね…』

道理のわからない5歳児 

たいへんだね

 

爺婆は おかげさまで 久々の月を眺めながら

よろよろカメキチと 帰りました

 

 

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無駄なことなど 無い

「聞いてなかった」と言えるはずもなし

入院中の子供たちは 病院の特殊性もあり それまで出会ったことのない先天性の身体的な奇形を持つ子供たち

完全看護なので 親の付き添いはなく 面会時間が終わるとき 

後ろ髪をひかれながら 親は帰っていく

正直、その頃の自分は 

親の その悲しみにどれだけ寄り添えられていたか 心もとない

とにかく 目の前の子供たちに向き合うことで手一杯

 

人見知りするわたし 

当初 誰もが自分より有能に見えていた

 

5月 青森から来た同僚から 恵那をハイキングしようと誘われた

同僚4人 緑深い山道を歩くうち みんな、自分と同じだなと

それからかな、仕事は慣れないことばかりだったけど 楽しかった

 

二分脊椎症の女の子と、先天性横隔膜ヘルニアの男の子

どちらも1歳前の乳児で ものすご~く可愛いい

いつもペアで 遊んでいて 病棟の人気者

二人とも 手術を控えていた 

大人と違うところは 悲観もせず、不安もなく

いつも笑顔、そんな子供たちと一緒に仕事をできて楽しいはずがない

確かに 持って生まれたその奇形が その後の人生に大きな影響を与えるにしても、手術の成功を心から願っていた

 

「遠山の金さん」とひそかにニッネームをつけた私のお気に入りの男の子先天性横隔膜ヘルニアの大手術の日 

術後集中ケア担当に当たった

新人の時の失敗をするまいと 必死にバイタルチェックした

その記憶は いまだに生々しい

 

多指症の乳児もいた

水頭症のおおきな頭はガラス細工でできているようで 最初抱くにもこわごわだった

どの子も みんな 可愛かった

鎖肛の赤ちゃん、毎回二人がかりで洗腸をして うんちまみれになったなぁ

そけいヘルニアの手術が 簡単に思えるほど 重度の子どもたちが多かったが 手術して回復すると 退院や転院するので その後の経過を知ることはなかった

 

小さい子の採血は 大変!

暴れる子どもの固定が むつかしい

注射器で採血できない時も多く 針を刺し 先からぽたぽた出る血を容器に受ける

あまり時間がかかると 溶血し、データーに影響するので緊張する

 

採血や注射、髄液を採取するとき 介助する看護婦次第?

如何にDrが 上手に手技を行えるか 

泣き叫ぶ子どもの苦痛が短くて済むには どこをどう固定するがいいのか 

なんて 思いながらの日々

 

乳児だけではない

脊椎側弯症で手術を受けた後 長期にわたりベッド上安静を余儀なくされるのだが つらい長期入院の思春期の子たちもいた

 

初めてのことばかりの毎日

貴重な経験をさせてもらう日々

今振り返ると 

この1年 後の自分に 影響大だったと分かる

無駄なことなんて ほんと、無いって 今は断言できる

 

充実した日々とは言え 寮との往復

仕事に慣れるにつれ

当初の希望とは違う配属先で このままやっていく?

もやもやした気持ちが 再び大きくなりだす

 

中京大学を夜勤専門で 卒業した経歴をもつ

わが勤務先の婦長にも 悩みを聞いてもらった

 

話を聞いてもらいながら 自分の気持が見えた

福祉、心理学に興味があること、もっと勉強したいと!

 

高校卒業して もう4年半になろうという秋

ちょうど今頃の季節~金木犀の香りがしていた~

決心したのだ 大学へ行こう!

 

名古屋市内にある日本福祉大学Ⅱ部と、中京大学の下見に出かけた

中京大学前で 「お茶しない?」と男子学生に声かけられたのを幸い、大学のことを聞いた。何しろ相手は年下だから 臆することもない

ここは昼間しか通えない

わが婦長は すごい!夜勤専門なんて、自分には無理…

それに話を聞いた学生には悪いが、チャラ男に見えちゃったから

日本福祉大に決めた

入学金も、授業料も何とかなりそう

 

早速 勉強机を買った

それから 受験勉強を始めた

聞いてなかったよ

愛知県の面接は名古屋市内だった

コロニーへは 前日集合とのこと

JR中央本線高蔵寺駅下車後 名鉄バスに乗り換える

 

随分と 遠い所へ来ちゃったなぁ…と だんだん心細くなる

着いてすぐ 大きな会議室でオリエンテーション

たくさんの人が居た

 

そこで 勤務先が中央病院だと言われた

ええっ~!

 

重症心身障害児施設で 働くつもりで ここへ来たのに…

中央病院の、それも小児外科

 

ガ~~~ン

聞いてなかったよ、よりによって外科なんて…

 

散会する頃 外は真っ暗になっていて

寮までの道は 山道を切り開いた ちょっと離れたところ

ますます気分が落ち込む

 

部屋に入ると 父が送ってくれた布団袋が ポツンと!

 

父は 愛知県へ行くと言った時

「そうか」と言っただけだった

ボロアパートを引き払う時にも 来てくれた

 

とりあえず、寝る用意をと、荷をほどき始めたら

 

一番上に 「酢昆布」と「干しブドウ」の菓子があった

 

(わたしの好物、覚えていてくれたんや…)

泣いたかも…

 

もう、引き返せない

そう思った

 

昭和45年5月開院の中央病院は 心身の発達に重大な障害をおよぼす各種疾病を専門的・総合的に診断し、その予防・治療を行うとともに、コロニー内各施設の利用者の健康管理と疾病の治療を行う病院として設立された

 

当時2年目の新しい病院 

わたしと同期生が 主力という若い看護集団

マニュアル作りも 一から

 

ピンクの白衣?に照れながら

全国から集まった看護婦のレベルに 

ついて行けるかなとの不安をも 抱きながら

働くことになった

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新米の看護婦は 失敗の連続

4月から 看護師として働き始めますが、国家試験の発表がある5月末までは仮免許です

 

勤務先は 胸部外科病棟です

結核菌の排菌のある一部の病室は 厳重なガウンテクニックが必須でしたが 

肺腫瘍や喘息の患者さんもおられました 

朝の申し送りが終わると バイタル測定や結核治療に用いられた最初の抗生物質のストマイ、カナマイの筋肉注射と 栄養剤の静脈注射です

準備して 一回りするのに 半日はかかるのです

 

毎日 お尻に筋肉注射や 腕に静脈注射されているものですから 新米には大変なことでした

筋肉注射は 針がブスッと刺さらないし、刺さった後 力入れて押しても 液が入って行かないし、たまに針の接続部から液が飛び出すなんていうことも…

超気弱な?わたしは 一度刺し損ねると 上手な先輩にお願いして回りました

(見るより慣れろ…なのかもしれませんが、痛いのは患者さんだし)

注射当番は 苦手でした

清拭、洗髪ケアのほうが好きでした

 

勇気を出して 人生初めて ピンクの口紅を薄~くぬって 夕方からの勤務に出た時

即そのことで 男大部屋の患者さんたちに からかわれました

それ以降 (結婚式で 妹のを借りた以外)化粧とは縁のないわたしです

若い方も多く 大部屋は 夕方の処置もない時間帯は 和やかな雰囲気だなと 

当時の新米看護婦は そう思っていました

ほんとは そんなことなかったのでしょうね

結核は、世間ではまだまだマイナーな病気でした

これからのこと 考えてもどうしようもないから

新米看護師をからかったりして 気を紛らわせていたのでしょう

 

1階と2階に分かれていて、夜勤は 手術がある時は3人、普段は2人

夜勤の時 詰所前の廊下の向こうの庭 暗闇に白いものがチラチラ

何だろうと 目を凝らしたら

先輩が 「見んとき、見ると余計喜ぶから…」

何のこと?

今でいう猥褻おじさんのことでした

さらっと言う先輩の言葉に

そんなもんかと、思ったもんであります

 

2階 肺癌で入院中の 「湊軍次郎」さんのこと

夜 家人も帰り 病棟が鎮まる深夜になると 必ずナースコールを鳴らされます

寂しいから

 

「かんごふさ~~ん…かんごふさ~~~ん」と

新米のわたしは 「今行きま~す」と飛んでいくのですが

これといった用もなく バイタルも変わりなし

詰所に戻ると またナースコール

 

あるとき 「そんなにいつもいつも 行かんで良いよ」と先輩看護婦に言われ

行くべきか、行かざるべきかと悩みつつ

インターホンのスイッチONのまま 軍次郎さんの悲しげな

「かんごふさ~ん」と呼ぶ声を 聞いていました

お名前が この歳になっても 頭から消えてくれません

 

ある時訪室した際 

「あんたじゃ、話にならん!婦長を呼べ!」と中年の患者さんに叱られました

何故 怒らせてしまったのか…その時全然分かりませんでした

 

患者側からは 白衣の看護婦は 皆同じに見えます

先に誰かに 何かを尋ねたのに その返事がなくイライラされているところに 

わたしが とんちんかんな受け答えをしたようです

怒鳴られ初経験のわたしは どうしていいやら

オタオタしたあの時のこと 忘れられません

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けれど カメキチどんの入院中 

わたしも 反対の立場で 腹立たしい経験しています

 

聞かれたことについては 必ず返事をする、以後 肝に銘じたことです

 

新米なので 患者さんの気持に気づく余裕はなく 業務をこなすので手一杯

ある若い患者さん 巡回の時は何も言わないのに

そのあとすぐ「気分悪い」とナースコールで呼ばれます 

血圧計持参して バイタルを見に行くけど 変わりない

わたしの 夜勤の時 しばらく続きました

「気が あるんじゃないの、態度に 気をつけてね」と 先輩からの助言

仕事で親切にするのも なかなかむつかしいもんです

 

詰所の横にリカバリルームがあり、術後の患者さんが 夕方入室します

麻酔が切れかけるとき 体動激しくなることもあり、ただでさえ、リカバリルーム当番はビビっているのに 術野に入れた排液のドレーンの先が抜けて こちらがパニック!焦りましたね~

(幸い、わたしは外回りの時でしたが)患者さんが暴れて 

背中の大きな術創が パックリ開いてしまったことがありました

当時の肺切除の術創は 背中を刀で斜めに切り下ろしたかのような大きなものでしたが、それでも麻酔が効いていたのか痛みは感じてなかったようです

Drは 苦り切った顔でその場で再縫合されたのですが 感染することもなくて良かったというか…

 

憧れのI先生は ご自身も結核で肺も切除し肋骨も取っておられ 歩行時 肩が少し下がります

ふだん 穏やかな話し方で 怒った姿は見たことがありません

患者さんはもちろん、看護婦にもとても人気のある先生でした

強敵は 係長です

しなを作って 「ねぇ~センセイ」みたいな感じで

ムムム…と悔しかったです!

 

それでも こんな本読むといいよと わたしに勧めてくださるので

いい仕事しなくちゃ~と 張り切るのでした

 

学校を卒業後 寮は先輩と2人部屋に

交代制勤務は どうしても相手に気を使います

 

5月頃 同級生のイクちゃんから 

「近くの親戚の持ち空き家があるから、一緒にどう?」とのお誘いが!

2部屋に 窓から電車の操車場も見えるところ

願ったりかなったりで 引越しました

ほとんど荷物がないから 楽勝です

 

市内に実家があるイクちゃんは 誰かと一緒なら家を出てもOKというのが 

親からの条件だと聞いたのですが 

何故か イクちゃんは あまりアパートに帰らない日々

 

???

 

ある時 深刻な顔で 相談があると言います

何事かと思いきゃ

中絶するので 付き添いを頼むと

(姉の時と同じです、隠れ蓑に利用されたと後から知ったことです)

 

付き添いましたけどね、なんかなぁ…複雑でした

子供の命も…

 

他人に うまく操られやすいのは 

「自分」というものがないからだと 情けなかったです

その後 イクちゃんはその相手とゴールイン!

だったら…と余計に 空しかったです

 

そんなこともあって、次は、自分で探し 

長屋風共同トイレと台所、窓を開ければ隣の家の壁というボロアパートで 一人暮らしを再スタートです

親へは いつも事後報告 

何も 言われなかったです

 

風呂は なるべく病棟の職員用風呂ですませ

洗濯は手洗いで 部屋干し

日中 陽がささない暗い部屋だけど 

ほとんど 職場に入りびたりの毎日 仕事が楽しかったです

 

IDrに勧められた 北杜夫の「白きたおやかな峰」を読んで感動

就職して初めての夏 美ヶ原から上高地へ2泊3日で一人旅をしました

これまた 行き当たりばったり 

今思えば 帰りの最終バスもなく、宿も決めていなくて 

まったく冷や汗もんの旅でした

でも 自分が考えて 行動するという意味で 思い出深い旅です

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ちょうどお礼奉公の1年も終わるし頃 IDrの転勤の話にびっくり

でも それでふっきれました

 

障害ある子どもの看護をしたい 

愛知県心身障害者コロニーの職員募集に応募したのです

看という字

手で

目で

対象を よく見る(観察)のだと 初めに教えられました

 

ハンドパワー&眼力

それらの不思議な力  侮られませんね

 

相手にふれて 視線を合わすことで

見えないものが 通じ合うような感覚、ありますよね

でも 看護学生の時は 手を握ることさえ

勇気のいることでした

 

子供さんもまだ小さい 働き盛りのKさん

尿毒症で身体はパンパンに腫れて 苦痛も半端ではない様態でした

訪室しようとしたその時 男泣きしておられるのが外まで聞こえてきて 

入ることが できませんでした

看る以前のことで 苦い記憶です

 

昔 病院の時間は 治療法が限られていたことも大きいのでしょうか、今よりゆっくり流れていた気がします

卒業した頃でさえ 大量皮下注射で補液していました 

この時は二人の看護婦で 熱いタオルで吸収を促すので付きっきりです

 

清拭、洗髪など 直に患者さんへのケアをした時が

職務を果たしていると思えたものです

 

バイタル測定も 患者さんと話しながら 水銀体温計が上がるのを待ちます

「看る」ことに重点を置くと

仕事が遅いと 言われもしました

 

カメキチが入院の時は カルテも電子化され 昔より せかせかと仕事に追われるているようでした

 

医療機器、医療用消耗品(酒精綿、綿球、ガーゼなどなど)は中央材料室で消毒

学生の手術室実習のおおかたは この材料つくりでした

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後に県立病院勤務になった時 ほとんど使い捨てることに びっくりしました

さすが~県立はお金があるんだなぁ~独立採算の日赤とは違うとね

 

そうそう、初めての手術室実習

外科の部長は機嫌が悪いと メスが飛ぶという先輩からの言葉に 

緊張して ガチガチでした

その前の 内科外来の シャキシャキ婦長に 

「あなた!落ち着きないわよ」と言われていたので 

手は しっかり前に組んで 臨みました

緊張すると 手がアチコチ動いてしまうのです

(自信のなさが 態度に出ることを ズバリ指摘されていたのです)

 

ふだんは動じることのない相棒でしたが 

この時は ドラマであるように 術野を見て貧血で 即退場

幸い、部長のご機嫌麗しく 

術野の中まで 見せていただきました

ピンク色の きれいな肺にぴくぴく動いている心臓も!

 

人間の健康な臓器は きれい!が 印象に残りました

でも てきぱき 医師の必要な器具を次々手渡す看護師は 

自分には無理だと 分かった実習です

 

***話が アチコチとびますが ごめんなさい***

わたしが 初めて死んだ人に触れたのは解剖見学時です

めったにない解剖がある時は どこの実習場にいても 

一度は見学することになっていたのでしょう、きっと

昼前に 突然の呼び出しで集合

 

なぜ亡くなられたかとか そんな前置きもなく、いきなりでした

呆然とするなかの立ち合いでした

 

足元のほうに居たので 何をされているのかは全然見えません

黄疸症状が どす黒い色になって残る ご遺体でした

 

この場にいるのが 申し訳ないような気持ちで そっと足に触れてみたのです

「冷たい・・・」

これが 「死」なんだと 実感しました

 

みんな 声もなく そのまま昼食時間になり 寮の食堂へ 

その日のメニューがカレーでした 誰も 食べられませんでした

 

そんなこんなで卒業して

わたしの 看護婦デビューは 第一希望が通り 

憧れの医師のおられる胸部外科(と言っても 実質は結核病棟)勤務になったのです

第2希望は 小児科でした

 

トーマス・マン、V.E.フランクル北杜夫などの本を勧めてくださった

憧れのDrと同じ職場で 仕事できるというだけで 前途洋々の気分

結核の感染?

まったく 頭の中にありませんでした!

若さ

看護学校は 勧誘に来られた先生の言葉通り 月父からもらった小遣い3000円と

病院でのアルバイトでやりくりできたのだからね、今じゃ考えられない

 

月1度 福井から武生へ帰った

(母は 相変わらずだったけれど)

自分のことで 手一杯のあの頃

当時の妹たちのこと さっぱり記憶にない 

無責任な姉だった

 

23人しかいない同級生、3年間の思い出は語りつくせないほど多いはずだが

出会った患者さんのことほどは 不思議と思い出せない

 

初めに同室の3人

石川から来ていたカッチンは 妙に大人びていて 玄人並みに歌が上手かった

金沢の呉服屋さんへ嫁いだあと 早くにあっち側へ行ってしまったし…

大野から出てきたヤッちんは おしゃれで、一発逆転の夢をもっていて 

卒業後奨学金返還して アメリカへ渡った

Nさん、卒業後数年して会った時は 宗教そのものっていう感じで…

今 同級生との交友はない

 

カッチンとヤッちんは おさげの世間に疎いわたしを よくからかったけど

いざという時の結束は 堅かった

クリスマスの出し物に「帰ってきた酔っ払い」に合わせて コント風に4人で演じた

“くそ真面目な”自分の殻を一つ破れたのは 彼女たちのおかげだ

 

実習はいつも同じ能登からきていたSさん 何を考えているのか、何事も興味なさげで 

初めは ちょっととっつきにくかった 

一緒に回るうち 気にならなくなった

2年の冬休み 彼女から 白樺湖近くのペンションでアルバイトしようと誘われた

 

茅野駅に着いたときは夜明け前 駅のストーブは赤々と燃え 

周りは寝袋で寝ている人たち

始発のバスを待つ間 震えていた

何の計画性もなかった

 

ペンションは スキーをする若い人たちで賑わっていた

働く人も 沖縄からとかあちこちから 

オーナーのご夫婦(奥さんは聾唖のかた)を応援する若い人たちで成り立っているような そんなところ

仕事の合間に 近くの車山へ連れて行ってもらった

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夜は 満天の凍れる星空

キラキラ サラサラの雪

 

凍った漬物樽の氷を割って 取り出してくる野沢漬けのおいしさ!! 

その後 出会ったことがない

 

ここで トンカツの作り方とか おかずの盛り方を教わった

で、翌年冬も 行った

この時Sさんは 京都からバイトに来ていた看護学生の子と仲良くなった

バイトの合間にスキーで骨折した彼女ともう少し居るというので

一人で帰ることになった

白樺湖のバス停に着くと バスは出た後

駅までどのくらいか分からぬまま 予算節約のため

次のバスが来るまで 行けるところまでと歩き出した

冬、天気が良かったから

 

だんだん心細くなってくるが バスは来ない

と、そこへタクシーが!

茅野駅? 良いよ、どうせ帰りの方向や、乗りな」

ホイホイと 乗せてもらった

歩いて行くなんてとんでもない距離だと思いしった

駅まで ちゃんと送ってくれたのに お金も取られなかった

 

今なら 危険だというね、絶対!

 

一緒にペンションで働いた かっこいい男性2人と 東京に行ったら

電話する約束をしていた 

卒業旅行で 東京の日赤本社訪問後

自由時間に 本当に 宿舎に迎えに来てくれた 

銀ブラと 歌声喫茶に連れて行ってくれた

(お姉さんに会う約束があったSさん、地団駄踏んでくやしがった)

この時のお一人から 文通を申し込まれた

そのまま文通していたら…

沖縄の人?

 

その気になれなかったから 今こうしてここに…

 

若かった

何かをする時 

その先にあるものに向かって

突き進んでいける

ホント 若かった

 

1970年3月看護学校卒業 

先輩から引き継がれた伝統の制服を着て父と

この日 初めて父が 私の学校へ来てくれた記念の写真

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べ~んは?

産婦人科学を教えてくださった田中先生?

お名前はちょっとあやふやだけど…

お顔と その独特の物腰は半世紀近く(‼)たった今も思い出せる

 

当時はカルテをドイツ語で書かれるDrも多い時代

田中Drは 分娩中 産婦に余計な不安を与えないように

学生にもドイツ語で指示をしてくるという人で

それが 学生の勉強にもなるとの信念の持ち主だったのです

 

実習前には 必ず カルテ上の単語の丸暗記

 

産科実習中は いつ産まれるか分からないから

学生は 寮のなかでも 別に待機している

夜間でも 分娩が始まると 電話で呼び出される

夜間に お産の実習があっても 翌日の授業は普通に出席しなきゃいけない

 

いつもなら 2人決まった相棒と 実習場をまわる

が、産科だけは 4人グループ

 

陣痛のことを Wehenという

vé:ǝn と発音する

 

Drが 「べ~んはどうだ?」という度に

いつも 別のことを想像してしまうわたし

 

陣痛に 苦しみつつ

「えっ・・・」と 不安な表情をみせる患者さん

こんな言い方 絶対おかしい!と思いつつ

何にも言えなかったけど

 

その頃は 後産で胎盤が出ると Drは 素手胎盤の計測や異常の有無の観察は 学生にさせた

素手でなければ 異常は分からないと言って…

今じゃ考えられない(感染上、問題です!)

 

ご存知ですか?

胎盤って 人さまざまでレバーの大きいのに ゴツゴツ、ツブツブ、部分石灰化していたりして 生暖かく、気味の悪いものです

 

おかげさまで 新婚の時、一度 生レバーの調理に挑戦したものの

あの感触を思い出して 捨ててしまった経験があります

あれから、自分ではレバーを 生では触ったことがありません

 

一番初めに見学したお産は 胞状奇胎という異常分娩でした

これも ショックでした

(3~5%ほどは胞状奇胎のあとに絨毛がんが発生することもあるため、除去後も経過を観察が必要になりますが、現皇后もかつてそれで流産されたあと、元気なお子を産んでおられるので、もし、診断されてもガッカリしないでくださいね)

 

結局、私たちの実習グループは 4週間で約30症例のお産に立ち会い、クラスでは断トツでした

 

元気な産声で生まれてくると 分娩室はバラ色です!

 

でも…

死産や流産で生まれた子の 透き通るような ちっちゃな身体

奇形がある時も…

 

元気で生まれてくることが 

どんなに大変かを 学んだ実習でもありました

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